女王国



 日頃から女王国主義者と公言しているので、批判を恐れずに書く、いやどう批判していただいても結構です。ただ、こう考えるようになっている人がいるという話である。

 つくづく、男性は不完全だなあ…、と思っている。まずは神話的に考えてほしい、人類の最初は男性であったのか、はたまた女性であったのか。多くの始祖神話があるなかでだいたい最初は女性であることが多いと理解している。(最初の女性は男性のアバラからできた…なんて神話を持つ人たちの倫理は理解しがたい)

 最初の人間の神話的役割は、たった一人で子孫を残すということである。単性生殖か何かの奇跡か知らないが、その可能性は子宮を持つ女性の方が男性よりも圧倒的に高いと考えている。男は産めないのである。

 男性は、人類が繫栄するための道具なのだと考えている。尊敬する男性は当然いる、ガンジー、頭山満、西郷隆盛ら、彼らは「自分ではない誰かのために、生命をかけること」ができた人物だと理解をしていて、守るべき社会(女性や子どもたち)にとって立派に役割を果たした道具であったのだと尊敬をしている。


 「男系の血統」とは、家畜を飼う種族の伝統なのだと理解している。野生の動物を、より人間のいう事を聞くように、またより人間の役に立つように(肉や毛を)品種改良をするには、原始的にはよい特性をもつオスを複数のメスにかけ合わせる。それで生まれた子供のうち、人間にとって最もよい性質もつオスをさらに複数のメスにかけ合わせる。これを繰り返すと、人間にとって都合の良い動物が遺伝的に固定されるようになる。野生動物の家畜化である。逆を考えてほしい、よいメスに複数のオスをかけ合わせたらどうなるか。「あなたのパパは誰かしら?」な子どもが生まれて家畜化は進まない。


 九州人として江藤新平を尊敬しているが、四民平等な民法を策定するにあたり武家のご作法を取り入れたことは失敗であったと思う。武家は、民を守り世を平らかにするための道具化された人たちであって、特殊だったのである。土地に縛り付けられた農民ならずとも商家は母系の社会であった。父は誰だか定かではないが、母は定かに母であったのである。

 ヘンなことを書いているが、儒教的に男尊女卑と言われる九州人の発生は明治以後だと個人的には考えている。ただの道具であるから尊敬の対象であったのが、武家ほどの倫理や自己犠牲の意識もなく家父長制をたてにただえらそうにしていると、男は腐るのである。

 

 司馬遼太郎さんが「オトコというものは…」と書かれるものをジェンダーの問題だとは思わない。「オトコは男であろうとすること」、個人的に言い換えれば「自分ではない誰かのために、生命をかけること」を止めたら、生きている意味がない。なのに、のうのうと生存してふんぞり返っている。この状況を「腐っている」というのである。

 

 だから女性がエラくて男性がダメなのではなくて、必然の帰結として女王国を主義としている。これは、家畜化されて男系優勢の社会に適応している諸兄には同意されがたいかもしれないが、そんな社会からはぐれて生きてきた私の一見解である。