
先日、久しぶりに平田夫妻のお宅を訪問したので、朝倉のことを書かなくてはいけないと思った。平田夫妻とは平成24年度からのお付き合いなので今年で10年目である。当時、九州大学の『I/Uターンの促進と産業創生のための地域の全員参加による仕組みの開発』研究の最中で、「地域主体による再生可能エネルギーの開発によって課題解決への投資をする」というスキームしか私の頭にはなかったが、平田夫妻をはじめ朝倉の皆さんから「それは違う。わたし達がやりたいのは地域づくりなんだから」との指摘を受け「???」と、その時は全く意味を理解できなかった。が、いまは納得できるということは、たいへん多くの学びをいただけたのだと感謝をしている。
平成24年度に朝倉市で小水力発電の可能性調査を行った画期(かっき)は、物理的なポテンシャルに加えて社会的なポテンシャルの調査を並行させて行ったことだった、と振り返っている。I/Uターン研究を実施していた時は、全国で小水力発電が地域合意形成の課題でなかなか進まないという状況があった。その原因について一個人として「その地域のことを調べずに社会で合意をとろうなんて傲慢でしかない…」と思っていたことと、当時、島谷研究室の学生であった仲野美穂さんに与えられていたテーマが「朝倉における水と人々の暮らしとのかかわり」となっていたことが偶然重なっていたとも思える。ともあれこの社会的可能性調査というものは、物理的可能性調査を地元の人達と一緒に行い、人と出会い話を聞き、また人と出会い話を聞くというものであり、結果として翌年、朝倉市に小水力発電を進める会が市民主体として形成され、学びと実践と失敗と出会いと挑戦を重ねた結果、『白木発電村』というほぼほぼユートピアが生まれた。さらに多くの出逢いがあり楽しくなったときに大水害に見舞われ発電村も白木集落もほとんどが流されてしまった。それでも地域の方々の心は復興に向かい、あらたな白木発電村の構想を進めている。この経緯については島谷研究室の仲野姉弟の論文に詳しく書かれているので参考にしていただきたい。
朝倉の方々の語られた「地域づくり」という言葉を、「学びのサイクル」と解釈するようになった。人は人と出会い、知り、見に行き、試み、失敗したりしながら、また人と出会い、と繰り返すサイクルである。この基底には地域社会の出来事を自分のこととして受け止める姿勢がある。次の世代がなかなか…という課題はあるが、この学びのサイクルの始まりを聞かせていただいた私としては、それもまた一つの物語としてよしとできると思っているが、それはまた別の機会に書くこととしたい
最後に、古来「朝倉」は上座(かみつあさくら)と下座(しもつあさくら)に分けられていた。ただ倭名鈔を調べてみると上の字で「あさ」と読め、座の字で「くら」とも読めるのである。だから上座で「あさくら」であったとも考えられる。辺境の九州人は、筑紫が筑前と筑後に分けられたように、「あさくら(上座)」も、中央政権によって上座(かみつあさくら)と下座(しもつあさくら)に分割統治されたのではなかろうか… 、とか考えているが誰も興味を示してくれないので、せめてもとここに書きおく。
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