めぐり逢うということ

更新日:6月23日



 30代の時、桑子敏雄先生(東京工業大学名誉教授。哲学、倫理学、合意形成学を専門

とする)に「めぐり逢いの哲学」のお話を聞かせていただいたことがあり、そういうものなんだ…と思って生きてきた。簡潔に言うと、わたし達はそれぞれの人生において二つの局面しか有していない、ということである。一つは所与(与えられるもの)の局面であり、どこでどのように生まれ、どのような環境でどのような事態とめぐり逢うのか、わたし達当方の期待や要望は一切考慮されることは全く無い。もう一つは選択の局面であり、これまたわたし達当方の期待や要望は一切考慮されることは無いめぐり逢いの結果であるが、選択の余地がある場合である。選択ができるということはラッキーであり、また「人生において局面は、所与と選択の二つしかない」という諦観なのだと、個人的に理解している。

 そうしていると、わたし達当方の期待や要望は一切考慮されることは無い、期待せざる事態との遭遇において、不満や不服を覚える習慣がなくなってきたように思う。いかなるめぐり逢いであっても「受け入れる」姿勢が習慣づけられたと言い換えることができるだろう。また選択の局面に意識的になることによって、迷うということがほとんどなくなったように思う。局面の変化を認知したのちに「迷う」という選択肢は、「局面を認知したまま抱え込む」という所業であって、時間を弄して選択の機会を失ってしまいそのうち次の局面に遭遇し、めぐり逢った意味を失ってしまうのである。「選択する」ということは、局面の認知に対して自分の器量を「解き放つ」ということなのだと理解するようになっている。局面についての情報が不足していれば「情報を集める」という選択をするし、情報が集まっても局面の理解ができなければ「誰かに相談する」という選択をする。それでも局面に適応ができなければ「白旗をあげる」選択をして、消耗・被害の最小化をはかる選択を続けていき、つぎの展開での新たな局面とのめぐり逢いをじっと待つのである。

 

 今年で50歳になる。よく周囲に「40代になったら、全く迷わなくなったよ」という話をしていたので、それは幸運にも桑子先生とのめぐり逢いによって、30代の時に自分の人生への姿勢を整えることができたからなのだと、振り返ることができた。そしてどうやら「五十にして天命を知る」という局面に、わたしはこれからめぐり逢うことになっているらしい。よろしい、いかなる天命であろうが、わたしにはそれを「受け入れる」用意ができている。だから「まあ、お手柔らかな天命をいただきたいものだ…」とか、思っていてはならないのだと、さきに反省からはじめている。


文責 山下輝和

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